天の御国が地にもたらされますように by Dr. Myles Munroe

神の王国と政治

このメッセージでDr. Myles Munroeは、アメリカが天の御国のようになるよう祈ることを薦めています。今の民主党州知事の州の惨状を見たらどう思うでしょうか? 想像もつきません。まさに政治の失策ではないでしょうか。

このサイトは、統一教会、エホバの証人、モルモン教とは一切関係ありません。以下がDr. Myles Munroeのメッセージです。一部、聞きづらい部分があることをお詫びいたします。

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イエスの祈り

我々がここにいるのは、人々を天国に導くためではありません。それは教会の任務ではありません。我々がここにいるのは、天を地にもたらすためです。それが教会の務めです。我々は社会に変化と影響力をおよぼすために、ここにいるのです。天のみくにが社会に影響を及ぼし、地上が確かに天のみくにのようになるために、ここにいるのです。イエスはこう祈りなさいと言いました。”天にまします我らの父よ、御名が崇められますように、御国が来ますように”、です。父は地上にいません、天にいます。天が我々の祖国です。地上は植民地です。みくにとは、天の政府のシステムです。それが地上に影響力をおよぼすのです。続けて、”あなたのみこころが、地にもなりますように”、どのようになるのですか? “御心の天になるごとく”、です。それが祈りです。地上から去るように祈れ、とは言ってません。天の御国が、ここバハマに、ジャマイカに、そして全ての国々に来るように、アメリカがまさに天の御国のようになるように祈りなさい、と言っています。これが、教会の務めです。

ペテロの声明を土台にした教会

マタイ 16章18節、”では私もあなたに言います。あなたはペテロです。私は、この岩の上に私の教会を建てます。” イエスが最初に使った言葉は、”Peter”、で英語ですが、ギリシャ語で、”Petros”,で小石という意味です。もう一つの言葉は、”Petra”, です。意味は、大胆、あるいは山です。この二つの言葉は全く違います。まず最初に、誰が”Peter”と、名付けたのでしょう。イエスです。”Peter”という名前は当初は”Peter”、ではありませんでした。それはシモン、という名前でした。シモンという意味は、風に揺らぐ葉っぱのように不安定だという意味です。実際、Peterは出しゃばりで、自ら問題を引き起こしました。Peterという言葉は、葉っぱとは反対です。イエスがPeterと出会った時、Peterは漁をしてました。その時、イエスは彼をPeter、小石と名付けました。ヘブル語では、名前がその実態を表します。あなたが何かに名前を付ければ、その名前になるのです。例えば、ヤコブという名前は、だます人です。実際、彼は彼の兄、エサウをだましました。彼は自分の名前に忠実だったのです。この時イエスは、Peterをもはや優柔不断なPeterではなく、山のように不動で、大胆な人間になるという意味で、”Petra”、と呼ばれるようになると言いました。そして”Petra”はまさしくのような人物になりました。使徒行伝で、ペンテコステの日に”Petra”は大胆に立ち上がって民衆に演説したり、死ぬまでローマ政府と戦い、自分の首が飛ぶこと気にしませんでした。彼は、強い人間となり、もはや優柔不断ではありませんでした。

イエスが質問した時、Peterは、”あなたは生けるかみの子、キリスト”、と答えたのです。イエスは、”Peter、あなたはPeter、小石です”、しかし、イエスはここで言葉を変えます。”Petra, その岩の上に私は私の教会を建てる”。その岩とは、Peterが言った声明のことです。その声明、”生ける神の子キリスト、王”、という声明の上に、私は私の教会、エクレシアを建てる、と言ったのです。エクレシアとは、召された者たちという意味です。かみは教会を通して、地上に再びご自身の支配権を打ち立てたいのです。続いてイエスは、”よみの門もそれをとめることはできない”、と言いました。よみ、とは地獄ではなく墓場のことです。わたしが召した者は、墓に葬られても復活すると言ったのです。

エクレシア、教会の意味

当時、ローマ帝国がイスラエルを支配してました。ローマ帝国は、ローマ人以外は半分動物の人間だとみなし、人々を虐げ、税を取ってました。しかしその人が死んで、墓に葬られれば税金を取り立てることは出来ません。もうその人はローマ政府の支配下ではなくなるからです。しかしイエスは、私の政府は違うと言いました。私の市民が死んで墓に葬られても、その人は私の政府の市民であり、私の政府はその人の面倒を見る、それほど私の政府は安定していると、言っているのです。だから、よみの門もそれをとめることはできないのです。

エクレシアは選ばれ、召された者という意味で、ローマ政府の内閣にあたります。政治用語です。言い換えれば、教会は人間の生きた有機体、教会は地上でのかみの法的な代理機関、教会は地上での神政府の行政機関、外交機関、地上にある天の議会です。ローマ政府が最初に打ち立てたいものは、議会でした。ローマ政府以前、どの王国にも議会はありませんでした。議会はシーザーに選ばれた人々からなるグループです。ローマ帝国で最もの権力ある人々のグループでした。そして2千年間、世界を支配したのです。危険な人々です。アフリカからイギリスまで、彼らは支配したのです。なぜなら彼らは議会を持ってたからです。議会はシーザーに任命された人々からなってました。シーザーは名前ではなく、タイトルです。神々の息子という意味です。シーザーは世界を支配するために、自分は神々から選ばれたと信じてました。ローマ人の血は誰よりも優秀だと信じていたのです。ですから、イエス・キリストとユダヤ人は、ローマ人にとって、犬とみなされていたのです。犬です。それは間違った権力です。そしてその政府は王によって選ばれたそれらの人々によって、いとなまれてました。そして彼らはエクレシアと呼ばれていたのです。エクレシアはイエスが造った言葉ではないのです。それはギリシャ人が造った言葉です。ローマがギリシャを侵略した時、ギリシャ中をゆき巡り破壊しました。しかし図書館は残したのです。そしてローマ人はギリシャ哲学を政府の運営に採用したのです。ですからシーザーのローマ政府の土台は、ギリシャ哲学です。シーザーは世界で唯一の民主主義と混ざった王国を持つことになったのです。ギリシャ人がエクレシア、英語で教会という言葉を造ったのです。

参照元YU-TUBE 40:06-53:00部分

創世記3章で人が失ったもの

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